地域医療日誌

新しい医療のカタチ、考えます

記憶の改変が癒しにつながる?

f:id:cometlog:20170819025144j:plain

 

 とあるきっかけがあり、久しぶりに「医療と癒し」について考えています。

 ぼくの個人的な思考の整理のための記事です。

 

ツイッターの導火線

 ちょうど、「地域医療ジャーナル」の2017年10月号で「冷酷なエビデンス」という特集を企画していたこともあり、記者さんからも同じようなことを考えていたと思われるツイートがありました。

 

 ツイッターのつぶやきは、まるで去年の花火に火をつけたら不意に着火して激しく燃えさかりはじめてしまったように、忘れかけたことへつながる導火線のようです。

 

 最初は、医療の中で癒し手の役割が希薄化していること、そのことはどうなのか、という疑問が発端だったわけです。

 医学的に正しく治療することに専念するあまり、ちょっと配慮に欠けた行動が目立っていないか? という批判の声もありました。

 

癒してあげたいという医療者のおこがましさ

 しかし、医療者は癒し手としての役割が期待されているのか? さらには、そもそも人は人を癒すことができるのか? という根源的な問題に直面することになります。

誰も人を癒すことはできない。癒すことができるのは、本人だけだ。 本人の癒しをどのように援助することができるか、そういった関わり方を模索すべきでしょう。

最期まで自分らしくあるために - 地域医療日誌

 

 おこがましい、という表現がしっくりきます。

 医療で何か人にいいことをしてあげたい、人を癒してあげたい、そういった医療者の過剰な正義感の延長線上には、明るい展望が開けていないように感じます。

 癒すことができるのは本人だけだ。

 このコトバはとてもしっくりきます。さきほどのツイートにもあった「他者理解不可能性」と近い考え方なのかもしれません。

 

偽りの記憶が癒しにつながる?

 そして、さらにその後の記事。こちらもツイートを発端にした記事でした。

www.bycomet.tokyo

 いくつか引用しておきます。

強い物語は記憶を巧みに改変し、偽りの記憶を作り出す。このことによって、過去の嫌な記憶から解放させてくれる。

なるほど、これが物語のもつ癒し効果の実態なのかもしれません。

忘れたい記憶を美しい記憶へ - 地域医療日誌

強い音楽も記憶を巧みに改変し、偽りの記憶を作り出す。このことによって、過去の嫌な記憶から解放させてくれる。

強い音楽によって偽りの記憶を作り出すことができたら、癒し効果を発揮できるはずです。

忘れたい記憶を美しい記憶へ - 地域医療日誌

 

 強い物語や音楽などで「偽りの記憶」を作り出す。それが嫌な記憶を追い出してくれるのではないか、という仮説です。

癒すことができるのは、本人だけ。

記憶を改変できるのも、本人だけ。

忘れたい記憶を美しい記憶へ - 地域医療日誌

 

 しかし、記憶を改変できるのは本人だけ。記憶は本人に帰属しているからです。

 そこで、他者が本人との関係性を作りながら、記憶を書き換えていく。それが癒しのプロセスになるのかもしれない、という流れでした。

記憶は現象とコトバの間にある 

 ちなみに、ぼくがしばらくはまっている構造構成主義の概念上では、記憶は現象とコトバの間に位置づけるとしっくりきます。 

 そのことは、別のブログに書いています。

zonososa.hatenablog.jp

 

ここまでの整理 

 さて、ここまでのところを整理すると、このようになります。

  • 誰も人を癒すことなどできない。癒すことができるのは自分だけだ。
  • 嫌な記憶から解放されることが癒しだとすれば、強い物語や音楽で偽りの記憶を作り出すことが何かに役立つかもしれない。
  • 他者が関わりながら記憶の改変作業をどのように手伝っていくのがよいのか、これから考えてみたい。

 

 これらのことはどうにも立証しようがないことですが、アプローチする上でひとつの概念として役立つかもしれません。

 

 これから取り組もうとしている活動にも、役立てていきたいと思います。

 

 Copyright © 2003, 2007-2021 地域医療ジャーナル