地域医療日誌

新しい医療のカタチ、考えます

冷酷なエビデンス、あたたかな癒し手

 

 こちらの記事のつづきになります。

そして癒し手は誰もいなくなった - 地域医療日誌

 

癒しについてさらに考える

 バーナード・ラウンさんの本を入手しました。古い本ですが、原著と日本語訳です。これまでのぼくの医療の姿勢をふりかえり、反省しながら読み進めています。まだ途中ですが、読みながら考えていることを少し書き留めておきます。

 

 エビデンスとは、概して冷酷な情報です。

 今後5年間にどれほどの人が心臓病にかかるのか、どれほどの人が亡くなるのか。将来を予測するための「生々しいデータ」が示されます。

 もちろん、それが必ずしもぼくやぼくが診ている人に当てはまるとは限りません。あくまでも「研究に参加した人」のデータから、ぼくやぼくが診ている人などの「母集団」を類推できるに過ぎないわけです。

 

 とはいえ、もしがんの末期だとわかっていても、ささやかな希望はあるわけで、生存期間は平均3か月、と明確に示されることは冷酷なことです。

 中には、治療すれば死亡率が低下します、という喜ばしい情報もあったりもしますが、それには手術を受けてください、治療の副作用があります、などといった、やはり冷酷さが対になっていることが多いわけです。

 

 「エビデンスの冷酷さ」をいかに緩和して上手に人につないでいくのか、そのことこそが医者の仕事、存在意義のひとつと言えるでしょう。

 

エビデンスの冷酷さに向き合う

 エビデンスの冷酷さにどう向き合うか、でぼくの頭が少し整理されたようです。

 

 エビデンスをぼくのブログも、冷酷なエビデンスを伝えることが目的ではありません。もとい、エビデンスを示したとしても、その冷酷さを強調することが目的ではありません。

 エビデンスに対する親近感、理解しやすいようにエビデンスを伝えることも大切ですが、少しでもつらい気持ちが楽になれること、元気になれること、そして楽しい気分になれることこそが、本来の役割だったはずです。

 

 医療現場でも同じ。冷酷なエビデンスを冷酷なまま投げかけるのではなく、あたたかな癒し手としてどう活用していくのか。

 深刻ではないように伝えるにはどうすればよいのか。

 治療の希望をもたせて医療の依存度を高めることではなく、生きる希望を持てるようにするにはどうすればよいのか。

 

 エビデンスがあたたかな癒し手となるようにするにはどうすればよいのか。ヒントがこの本に書かれているはずです。

The Lost Art of Healing: Practicing Compassion in Medicine

The Lost Art of Healing: Practicing Compassion in Medicine

 

 

 こちらの日本語版がこちら。分冊となっています。

治せる医師・治せない医師

治せる医師・治せない医師

 

 

医師はなぜ治せないのか

医師はなぜ治せないのか

 

 

 細部を検討すれば、エビデンスは更新され、記述も古く時代に合わなくなっているものもあることでしょう。しかし、本幹部分や著者の主張はいまだ色褪せていないように感じます。

 

 さらに読み進めたいと思います。

 

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