地域医療日誌

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地域医療日誌

変化しつづける地域でともに悩み、考える医療

医療文脈からの卒業

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看取りの違和感から

 ちょっと興奮気味に書いています。

 あまりの絶妙なタイミングに、完全に眠れなくなりました。

 発端となった記事はこちら。音楽療法士の佐藤由美子さんが書かれています。

 

 この中に決定的なフレーズがありました。引用いたします。

 私はアメリカのホスピスで10年間音楽療法士として働いた後、3年半前に帰国しました。日本での活動をはじめた当初、多くの人に聞かれた質問があります。

「今まで何人を看取りましたか?」

 私には最初その質問の意味がわかりませんでした。「看取り」は日本語独特の表現で、英語にはない言葉だからです。

 アメリカをはじめとする欧米諸国でよりよいケアについて考えるとき、その焦点はあくまで患者さんにあります。彼らのニーズや権利、といったことが最も重要なテーマなのです。私が「看取り」に違和感を覚える理由は、そこに患者さんではなく、医療者や家族など、ケアする側を主体としたニュアンスがあるからです。

 

 繰り返し問題となる医療者のコトバ。そこには潜在意識が反映されているものです。

 

 どこか深層で「医療者の文脈」(医療文脈)が連綿と受け継がれているのです。

 つまり、日本の医療の主語は本人にはなく、医療者にあるようです。医療は医療者が施してやるものだ、という潜在意識があるのでしょう。

 

医療文脈からの決別

 こういったコトバは医療現場において随所で聞かれます。

 医療者は医療文脈に(意識してあるいは無意識のうちに)従順に従うことによって、患者をどこかに置き去りにし、組織や業界、立場や身分のため、といったところに力点がおかれるようになっているのではないか、それがぼくの仮説です。

 人のためにやっていたはずのことが、知らず知らずにいつのまにか組織や業界のためになっていたとしたら、ちょっと恐ろしいことです。

 

 残された時間は多くはありません。

 臨床家として、もっと向き合うべき問題、時間をかけるべき仕事がある。そう思えるようになってきました。

 

 少なくとも教育プログラムや認定制度は本質的なものではありません。

 医療文脈からの決別、それとも医療文脈からの卒業というコトバがよいでしょうか。

 医療文脈から少し距離を置き、患者や家族とともに生きる。そんな臨床家像を模索していきたいと思います。

 

冷酷な医療とあたたかな癒し

 この記事で紹介されている、音楽療法士の佐藤由美子さんの本を手にとってみようと思います。何か大事なことが書いているような予感がします。

(116)死に逝く人は何を想うのか 遺される家族にできること (ポプラ新書)

(116)死に逝く人は何を想うのか 遺される家族にできること (ポプラ新書)

 

 

 科学性を追求する冷酷な医療の側面と、あたたかな癒しの側面。これをどう両立していくのか。これからさらに考えていきたいと思います。

 

つづく

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