地域医療日誌

新しい医療のカタチ、考えます

医療と癒しについてさらに思索を進めたい

 

医療と癒し 

 一冊の本を紹介した2016年のブログ記事を発端にして、「医療は人を癒せるのか」はぼくにとってひとつの大きなテーマとなりました。

 もちろん、日頃から感じていたことではあるのですが、まるでブログが触媒となって一気に思索が進んだかのようです。

 これからも、ひきつづき取り上げていこうと思っています。

 あれから少し時間が経過した現時点では、細部の記憶もあやふやになってきています。当時、いくつかのブログ記事とウェブマガジンの特集記事に書き散らしたものをここでふりかえって整理してみよう、と思い立ったところです。

 

 ブログ記事には新たにカテゴリー「医療と癒し」を設定しました。

www.bycomet.tokyo

 ぼくのブログ記事を抜粋引用しながら要点をまとめてみます。

 

ヘルスケアの商品化と分業化が何をもたらしたか

Bernard Lownは嘆いていました。若い医者たちの考え方が変わってしまったからです。考える代わりに、テクノロジーを使った検査をオーダーしてしまうのです。今日、巨大な組織が市場経済に踊らされ、利益を追求し、医者と患者さんの外来診療に影響を与えるようになりました。かつてのプロフェッショナリズムの契約は社会的変化のプレッシャーの下で変化しています。医者はもうかつての力がありません。プロフェッショナルな行動制限は必要ないのです。若い医者たちの「ライフスタイルの選択」という美辞麗句に飾られ、社会の計算とでも呼べることが起きています。それはマーケットの力の価値を高め、医者を賃金労働者とみなし、癒しの関係性を求める社会のニーズよりも優先しているのです。このような変化すべてがプロフェッショナリズムを損なっています。

癒し手としての医者 - 地域医療日誌

文化的、そして社会的権威を回復するためには、医者は癒し手でなければなりません。ビジネスマンであってはならないのです。このような考え方の変化は残念ながら広く受け入れられていないのです。

癒し手としての医者 - 地域医療日誌

 ヘルスケアの商品化 *1 が普及し、医者はテクノロジーを愛し、患者さんとの癒しの関係性を捨ててきたことが、このような危機的事態の原因だ、と鋭く指摘しています。

癒し手としての医者 - 地域医療日誌

 

 Bernard Lownさんは「ヘルスケアの商品化」の傾向がさらに強まり、医者は医療技術を優先したことによって、患者さんとの癒しの関係性は捨ててきた、と指摘しています。

 近代の産業構造のように多業種が連携して効率よくサービスを提供し、安定した医療の供給体制を築いていくことこそが、癒し手としての役割を放棄することになる、と警告しています。

そして癒し手は誰もいなくなった - 地域医療日誌

 医療が分業化されていった結果、そして誰も癒し手がいなくなったのではないか、という鋭い指摘です。
 医療現場はある一面、現実になりつつあります。
 こうしたことが、近代の産業構造の医療への応用だとすれば、ちょっと危ういように思います。

そして癒し手は誰もいなくなった - 地域医療日誌

 

 ビジネスマンのような医者、近代の産業構造のように効率よく分業化した医療現場、そこには誰も癒し手がいないのではないか、という指摘です。

 

冷酷なエビデンス

 すべての医療行為はエビデンス(科学的根拠、医学論文など)に基づくべきである、といった論調は、おそらく前述した最近の医療トレンドの延長線上にあるものでしょう。

 延長線上というのは、エビデンスにさえ基づいていれば効率よい医療が提供できるはずだ、という考え方のところです。

 同じですよね。

 そのままそれを実践すると、エビデンスを厳格に適用する冷酷な医療になるのではないでしょうか。

「エビデンスの冷酷さ」をいかに緩和して上手に人につないでいくのか、そのことこそが医者の仕事、存在意義のひとつと言えるでしょう。

冷酷なエビデンス、あたたかな癒し手 - 地域医療日誌

エビデンスを示したとしても、その冷酷さを強調することが目的ではありません。
 エビデンスに対する親近感、理解しやすいようにエビデンスを伝えることも大切ですが、少しでもつらい気持ちが楽になれること、元気になれること、そして楽しい気分になれることこそが、本来の役割だったはずです。
 医療現場でも同じ。冷酷なエビデンスを冷酷なまま投げかけるのではなく、あたたかな癒し手としてどう活用していくのか。 深刻ではないように伝えるにはどうすればよいのか。 治療の希望をもたせて医療の依存度を高めることではなく、生きる希望を持てるようにするにはどうすればよいのか。

冷酷なエビデンス、あたたかな癒し手 - 地域医療日誌

 

 そこで、エビデンスのどう使うか、どう伝えるか、について敏感になるべきだ、といった意見になっています。 

 

あちら側の世界 

 そして、ウェブマガジンの記事はこちら(全文閲覧は読者登録が必要)。「地域医療ジャーナル」の特集「医療は人を癒せるか

cmj.publishers.fm

 地域医療ジャーナル 2016年10月号 vol.2(10) は特集「医療は人を癒せるのか」を企画しました。6人の記者が独自の視点から示唆に富む考察を展開しています。

 興味のある方は読者登録の上、ぜひともご一読ください。

 

 あちら側とは、具体的には患者さん自身に起きている痛みや苦しみ、ということですが、広く他人におきている現象のことも含まれます。

 年をとらないとわからないことや、病気などいまだ経験していないことは、原理的にはわかりようがありません。まるでこちら側とあちら側の間には、容易に対岸へ渡れない深い川が流れているかのようです。 
 あちら側を理解することは難しいとしても、あちら側へ迫ることはできないでしょうか。どのようにしたら、医療者はあちら側について思いを馳せることができるのでしょうか。
 自らの経験や感性、そして患者さんからの伝聞の集積から、あちら側を想像する(あるいは、わかったふりをする)しかないのでしょうか。

あちら側へ思いを馳せる - 地域医療ジャーナル 2016年10月号 vol.2(10)

 

 現象は本人にしか体験できません。他人の体験や現象は、原理的にわかりようがないわけです。

 それでは、どのようにしたら他人の現象に迫ることができるのか、そのことについて、考えを巡らせています。

 癒しとは何か、という疑問に対して、ぼくはまだ明確な答えがありません。この問いも簡単ではないでしょう。ただ、今の医療現場に欠けているものであり、もう少し追究する価値がある、という確信があります。
 ともすれば、医療とは医学的に正しい行為をすることである、それこそが専門性である、と誤解されがちです。専門性を規定するほうが、仕事も楽でしょう。もはや、医者や医療者には癒しのようなことは何も期待していない、という時代なのかもしません。
 しかし、医療者自身が「癒しはぼくらの専門じゃない」と放棄してしまって本当によいのでしょうか。医療の目的は「医療行為をすること」ではなかったはずです。

あちら側へ思いを馳せる - 地域医療ジャーナル 2016年10月号 vol.2(10)

 

 解決策は今のところわかりませんが、少なくとも「癒しは医療の役割ではない」と放棄すべきではないでしょう。

 

 しかし、少し冷静になって考えてみると、この問いには案外根深い問題が潜んでいるような気がします。医療の本質的な問題構造についてです。

 だからこそ、やっかいで、できれば誰も関わりたくないテーマなのかもしれません。

 

医療が人を癒そうなんて思わないで

 この「医療と癒し」シリーズを始めるにあたって、心に留めておきたいコトバがあります。同じ特集で書かれている、spitzibaraさんの記事です。たいへん示唆に富むものです。

 医療職である読者の皆さんへの失礼を承知で、正直なところをぶっちゃけてしまうと、相模原の事件からの諸々を経てこのテーマと再会した時に私の頭に浮かんだのは、「そう簡単に医療が人を癒してやろうとか、癒せるなんて、思わないでください」という思いでした。  
 それは実は、去年、日本に「患者家族メンタル支援学会」なるものが立ち上げられたと知ると同時に、その第一回学術集会で当事者を中心にしたシンポを企画したからオマエも出て来い、と声をかけてもらった時に、まっさきに頭に浮かんだことでもあります。「患者家族にメンタル支援をしてあげましょう」なんて、そんなに簡単に考えないでください――。あの時、私はそう思いました。
<中略>
 そして、最後に次のようにお話しました。 
 ”おそらく多くの患者や家族は、「メンタル支援」などという特別なことをしてもらう前に、人として無神経なことを言わないでもらいたいし、まず「白い人」のゴーマンや無礼で傷つけないでもらえたら嬉しい。医療は患者本人の同意に基づいてやるものだという認識に立って、説明すべきことはきちんと説明するなど、当たり前のことをまず当たり前にやってもらいたいです。そして、患者や家族がギリギリのところで、もう耐えられないと声を上げた時に、それを「素人の癖に」「患者の分際で」と頭から撥ねつけるのではなく、誠意を持って対応してほしい。それが、まず何よりのメンタル支援だという気持ちが患者側にはあるように思います。 
 それから、医療現場では、実際には医師のメンタル支援を看護師をはじめとする他職種や患者や家族が担っている、という場面って、案外に多いんですけど、そのことはどのくらい問題として認識されているんでしょうか。  
 簡単に言えば、今までの医療のあり方や医療職の意識を自ら問い直すことなしに、そこに「メンタル支援」という新しい領域を追加されても、それが本当に患者や家族を支援する方向で機能するとは思えない、ということなのです。”
「医療は人を癒せるのか」再考 - 地域医療ジャーナル 2016年10月号 vol.2(10)

 

 spitzibaraさんは「重い障害のある子どもを持つ母親」の立場だけではなく、世界の医療に精通する医療ライターとしてご活躍されております。すばらしい著書をいくつも書かれており、その知識量たるや専門家を凌駕するほどで、たいへん尊敬しております。

 ブログのご縁から仲よくさせていただいており、ずっとぼくの「地域医療ジャーナル」に記者としてご協力いただいております。本当に感謝しております。(今さらですが、実はまだ面識がなかったという驚き・・・。ネット社会ってすごいですね。いつかお目にかかりたいと本当に思っております!)

 

 おそらくこれまでの医療体験から、歯に衣を着せずに言う物言いが持ち味ですが、おそらく核心に迫るご意見ではないかと思われます。

 医療が人を癒せるわけがない、その議論の前にそれ以前の問題について対策を講じてくれ、それが一般的な認識でしょう。

 

 ここを出発点にしないことには、医療者と利用者の隔たりが大きくなるばかりです。こうしたことを前提としながら、医療と癒しについての思索を進めていきたいと思います。

 

ここまでのまとめ

  • ヘルスケアの商品化と分業化によって、医療現場に癒し手がいなくなった。
  • エビデンスを厳格に適用する効率的かつ冷酷な医療が、さらに癒しを遠ざける可能性がある。
  • あちら側の世界、つまり他人の体験や現象は原理的にわかりようがないが、癒しは医療の役割ではないと放棄すべきではない。
  • 医療が簡単に人を癒せるわけがない。それ以前の問題(人を傷つけるような言動や態度)が残ったままになっており、対策を講じる必要がある。

 

 思いのほか長くなってしまいましたので、今日はここまで。

 

つづく  

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