癒しとは何か
これまで「医療と癒し」について、まるで特集のようにこのブログに思うことを書き綴ってきました。その時々に考えたことを思うままに書いてきた意見でしたが、ちょっと要点をまとめておく必要がありそうです。
ここからさらに論点を明らかにして解決策を探る前に、「癒し」とは何か、という定義のようなものが足元から揺らいでいるように感じています。
ここで原点に立ち返りたいと思います。
- 端緒となった文献や理論的背景をあらためて確認しておきたいと思います。
- ぼくが明らかにしたい問題は何か、について整理したいと思います。
まずはこの2点について、頭を整理しておきましょう。
癒し手の3つの特徴
一連の記事の端緒となった記事はこちら。
この記事で取り上げた本 ナラティブとエビデンスの間 -括弧付きの、立ち現れる、条件次第の、文脈依存的な医療 の第14章「癒しとは何か、誰がそれを必要としているのか?」 *1 には、「癒しとは何か」についてこのように書かれています。*2
癒しとはまるで、5人の盲目な男が象について説明するようなものです。それぞれが異なる説明になるのです。ですから、ベテラン学者は私に、この言葉を使わないように言ったのです。
あまりに曖昧な「癒し」という言葉を捨ててしまうかわりに、私は別のアプローチをとりました。そして、私が「癒し」と言うときは何を意味しているのかはっきりさせようとしました。
癒しとは何か、どのように行うかを説明する試みはこれまでにも何度もされてきました。ほとんどの場合、それは方法だけを説明していました。残念なことに、理論のない方法は科学的ではないのです。
本書のこのセクションではこう主張します。癒しは社会的な営為であると。そして、本書にくまなく説明されている方法の背後にある理論を説明したいのです。
癒しが社会的な営為であることを示すエビデンスは山ほどあります。
WHR Riversは自著「医学、魔術、宗教」のなかで「人類一般に」言えることだが、疾患の原因は人為によるものか、スピリチュアルな超自然的な営為であるか、あるいは自然の原因によるものであると述べました。
この言葉にはヒントが隠れています。どうして社会が、疾患や死の問題に癒し手を必要とするのか? このような社会のジレンマの現代バージョンは「癒し手」の役割のなかに埋め込まれています。
それはEgnewが説明したものです。Egnewは、癒しは「苦しみを超越する」能力だと言ったのです。
別の文化横断的な研究では、癒し手は3つの特徴をもっていると指摘しています。
このような説明から、個人のニーズと社会のニーズの両者が検討されていることがわかります。疾患と死は両者の統合にとって脅威なのです。
- 癒し手は社会的なパワーをもっており、それはしばしば特別な訓練で得られている。
- 苦しんでいる人がいて、癒し手による快癒を求めている。
- 癒しの関係性はしばしば行動、儀式といった言葉を含んでおり、苦しんでいる人の感情、属性、行動を益することができると信じられている。最終的には「犠牲者の健康を回復させ、集団の結びつきを再構成し、強化する。」
この本を読んだ時点では、よく理解できたと思っていたのですが、こうしてあらためて一部を取り出してみると、どんな意味や文脈で書かれているのか、わかりにくいところが多々あります。
まとめるとこのようになるでしょうか。
- 癒しとは何を意味するのかはっきりしていない。
- 癒しとは社会的な営為 *3 である。
- 癒しとは「苦しみを超越する」能力である。
- 癒し手は3つの特徴が必要である。それは社会的パワーをもつこと、苦しむ人から求められること、関係性(行動・儀式など)によって集団の結びつきを強めること、である。
癒しの定義
引用文では象について説明するたとえが書かれていましたが、「癒し」というコトバは人によって指すものが違っている、ということでしょう。
目に見えないコトバは共通理解がえられにくい、ということでしょう。
社会、文化、宗教というコトバもそうかもしれません。目に見えないコトバは、信念対立もおきやすいものです。
構造構成主義的には、コトバから共通の現象(あるいはその記憶)に立ち返ることができればよいのですが、苦痛や病気の体験というものの多くは個人的なものですから、なかなか難しいでしょう。
誤解を回避するため、ここでは当座は「癒しとは、苦しみを乗り越えるための(社会的な)力」と定義しておくことにします。
失われた医療の社会的役割
社会的な営為や役割が定義に含まれていることから、「医療と癒し」の問題には、医療の社会的な役割の問題提起がなされている、という気がしてなりません。
そういった視点で 癒し手としての医者 - 地域医療日誌 を読み返してみると、よく整理できます。
ヘルスケアの商品化が普及し、医者はテクノロジーを愛し、患者さんとの癒しの関係性を捨ててきたことが、このような危機的事態の原因だ、と鋭く指摘しています。
癒し手としての医者 - 地域医療日誌
医療はヘルスケアの商品化によって癒しの社会的役割を放棄しつつあるのだ、と批判しているわけです。
文化的、そして社会的権威を回復するためには、医者は癒し手でなければなりません。ビジネスマンであってはならないのです。
癒し手としての医者 - 地域医療日誌
医療が文化的・社会的権威を回復すべきなのかどうか、そこはわかりませんが、他の担い手が少ない社会的役割をちゃんと果たしてほしい、という文脈だったように読み取れます。
3つの特性を取り戻すべきか
それでは医療はどのように取り組むべきなのでしょうか。
癒し手に求められる3つの特性を考えてみましょう。「社会的なパワー」は凋落しています。苦しむ人から求められますが、病気の治療や予防に限定したものになりつつあります。関係性(行動・儀式)はどうでしょうか。定期的に外来に通院する、などはこの儀式に当たるものかもしれません。
こうした特性をさらに強化しようとすると、医療の依存度を高めて医療化を推し進めることになりかねません。科学的にも効果的かどうかもよくわかりません。
あまり進むべき道ではないように思います。
やはり、医療には癒し手としての役割を期待しない、他の人にその役割を託す、という道を探ったほうが現実的なのでしょうか。
もう少し考えてみたいと思います。