強い物語が記憶を改変する
ツイッターで偶然流れてきたひとつのツイートから刺激され、少し考えが整理されつつあるような気がします。
とりとめもないかもしれませんが、書いてみます。
内田樹さんが村上春樹さんの作品について書いた一文のようです。
「強い物語」は私たちの記憶を巧みに改変する。物語と「同じ体験」を私もしたことがあるという偽りの記憶を作り出す。それを「物語の力」と呼んでよいと私は思う。それだけが、私たちが私たちを私たち自身のままであることに釘付けにしようとするトラウマ的記憶から私たちを解き放つ。(内田樹)
— 村上春樹の表現論 (@HarukiEssay) 2017年2月14日
おそらく「村上春樹にご用心」か「もういちど村上春樹にご用心」あたりの引用ではないかと思います。
ここに、癒しの本質が書かれていることが、直感的にわかりました。
強い物語は記憶を巧みに改変し、偽りの記憶を作り出す。このことによって、過去の嫌な記憶から解放させてくれる。
なるほど、これが物語のもつ癒し効果の実態なのかもしれません。
音楽も記憶を改変する?
音楽も同様の性質をもっているように思います。フィクションと音楽は構造が似ているのではないか、とかねてから考えていましたが、なんとなくしっくりきます。
強い音楽も記憶を巧みに改変し、偽りの記憶を作り出す。このことによって、過去の嫌な記憶から解放させてくれる。
強い音楽によって偽りの記憶を作り出すことができたら、癒し効果を発揮できるはずです。
記憶の改変が癒しにつながる?
忘れたい記憶を、美しい記憶へ。偽りであっても、記憶を巧みに改変することができれば、癒しにつながることでしょう。
物語の改編という表現なら、ナラティブ・セラピーということになるのでしょうか。
関心を別のものに置き換えるというコトバで表現すれば、構造構成主義の範疇ということになるのかもしれません。
癒すことができるのは、本人だけ。
記憶を改変できるのも、本人だけ。
一連の考察が、だんだんつながってきたように思います。そして、少しずつ癒しの本質に近づきつつあるように感じています。
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