地域医療日誌

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

地域医療日誌

変化しつづける地域でともに悩み、考える医療

誰にとって無益なのか?

スポンサーリンク

 

相模原障害者殺傷事件からみえてくる世界

 2016年7月26日未明、相模原市の障害者施設において19人の尊い命が奪われるという、戦後最悪の残忍な殺人事件が起こってしまいました。

 この事件は、犯人が元障害者施設職員であったばかりではなく、「障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分がやるしかないと思った」と供述したと報道されたことから、人々に、とくに障害者福祉に携わる関係者には震撼が走りました。

 いまだにその影響は癒されているとはいえず、事件の深刻さを物語っているようです。

 

 すでに詳報されている事件の詳細やその背景については、ここでは取り扱いません。他の情報源をご参照ください。

 

 ここでは、ぼくの主宰する「地域医療ジャーナル」に、いつも記者としてご尽力いただいている児玉真美さんが、「現代思想 2016年10月号」に寄稿された特集記事「事件が『ついに』起こる前に『すでに』起こっていたこと」をひもときながら、事件について考えてみたいと思います。

現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社)

現代思想 2016年10月号 緊急特集*相模原障害者殺傷事件 (青土社)

  • 作者: 上野千鶴子,斎藤環,大澤真幸,森達也,最首悟,木村草太,立岩真也,市野川容孝,尾上浩二,杉田俊介,熊谷晋一郎
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2016/09/26
  • メディア: ムック
  • この商品を含むブログ (4件) を見る
 

 

コントロール幻想がついに「死ぬ、死なせる」まで

 同時期に児玉真美さんのインタビュー記事が、NHKのポータルサイトに掲載されています。こちらにも重複する部分がありますので、手はじめにこちらを一部引用していきたいと思います。

www.nhk.or.jp

児玉:私はこの10数年間、障害児者の周辺で起こっている世界の出来事を追いかけてきて、この世界がすごい勢いで障害者にとって恐ろしい場所になっているという懸念をずっともっていました。今回の事件はやはり、そのじわじわと広がる空気の中で起こったことではないかと思います。

木下:世界にじわじわと広がっている空気とは何ですか。

児玉:まずひとつには、ものすごい勢いで生命科学に関する技術が進んできて、人間の体も能力もいかようにもコントロール可能なのだという幻想が広がりつつあることです。そしてグローバル経済の進展によって、あらゆるところに経済優先の考え方が浸透し、それらの生命科学のテクノロジーの背後に強大な利権が生じていて、その幻想を後押ししています。

(略)

そうした幻想が広がり、科学技術に対する人々の期待と信頼がどんどん高まるにつれて、いつの間にか、人間を単に「生物学的な機能と能力の総和」ととらえる人間観が広がり始めているのではないでしょうか。もともとは医学をはじめとする科学の専門世界の限定的なものの見方に過ぎなかったはずが、社会の中でも人間を見る価値基準のスタンダードになりつつあるような気がします。  

 人間とは、もっと奥深くて、人と人との関係の中で、尊厳や共感をもってつながりあって生きていく存在のはずなのに、個体ごとに機能と能力の高さだけで人の価値が測られ決まっていくような怖さがあります。

 

 世界の人々が、科学技術や医療技術の進歩に歩調を合わせるように、人の命もコントロールできるという幻想(児玉さんは「コントロール幻想」と呼んでいます)を抱きつつあるのではないか、ということでしょう。

 医療の現場にいて、そういった傾向を感じることは(自覚を含めて)しばしばあります。

 こうした幻想が、一部の医療者や専門家のなかだけではなく、社会の価値基準のスタンダードになりつつある、という怖さがあると、児玉さんは指摘されています。

 

緩和ケアから積極的安楽死までがひとつづきに

 世界の安楽死をとりまく環境は、静かにそして着実に変化しつつあるようです。さきほどの「現代思想」から。

  • 積極的安楽死と医師幇助自殺(PAS : physician-assisted suicide)が共に合法:オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、コロンビア、カナダ
  • PASが合法:スイスと米国のオレゴン、ワシントン、モンタナ、バーモント、カリフォルニアの五州
  • 米国コロラド州では11月の住民投票が決まり、ニュージャージー州、ミシガン州でも合法化法案が提出されている。
  • カナダの法律では「安楽死」とPASを一緒にして「死における医療的援助MAID : medical aid/assistance in dying)」と称している。
  • 世界中の「死ぬ権利」推進派は、この他にも「医師の援助を受けて死ぬことPAD : physician-assisted death/dying)」などの文言への置き換えを始めた。
  • スイスでも、外国人も受け入れる自殺幇助機関として、名高いディグニタスの他にエターナル・スピリットが新たに登場。後者は医師幇助自殺を「援助を受けた自発的な死 AVD : assisted voluntary death」と称する *1
  • 終末期の緩和テクニックである栄養と水分の停止「自発的飲食停止 VSED : voluntarily stopping eating and drinking」が、誰でも合法的に自殺できる方法として喧伝され始めている。

 

 こうした現状に、児玉さんは「それでは緩和ケアから積極的安楽死までが一繋がりのものにされてしまわないだろうか」と懸念しています。

 世界の一連の動向をみると、幻想が「死ぬ、死なせる」という安楽死の概念にまで拡大解釈されつつあるのではないか、と確かに感じるところです。

 

誰にとっての無益か

 さらに児玉さんは、こうした死ぬ権利に関する動向と並行して、医療現場では「無益な治療」論が同時進行していると指摘しています。

 一部を抜粋しながらご紹介します。

  • 患者や家族が治療の続行を望んでいても、医療サイドに一方的な治療の差し控えや中止の決定権を認める「無益な治療」論が同時進行している。
  • 米国の法学者で生命倫理学者でもあるアリシア・ウーレットは「医師には無益な治療を提供する必要がないならば、臨床現場の問題として、また方針や法律の問題としても、『無益性』の定義についての合意があることが不可欠と思われる」と指摘しつつ、実際には「無益性」はいまだに学問的にきちんと定義されていないし、「無益性」が有用な概念であるとのコンセンサスもできているとはいえない、と述べている。
  • 本来の「無益な治療」論のココロとは、終末期の過剰な医療への反省から、もはや救命がかなわぬ患者を甲斐のない治療で苦しめないように、というものだったはずだが、議論の繰り返しの中で変質し、対象者の範囲は当初の終末期から植物状態、最小意識状態、さらには重症障害者、認知症患者、高齢患者へと、じわじわと拡大していくように見える。
  • 本来の「無益な治療」論とは、あくまでも特定の治療が特定の患者にもたらす利益と危害リスクを比較検討する、個別の医療判断のはずだが、いつのまにか特定の一人の患者にかかるコストと不特定多数の患者の利益との比較へと変質している。
  • 日本の「尊厳死」の議論は、一定の状態になったら延命治療を拒否するよう医師が患者に向かって説き広める形になっている。
  • 日本の「尊厳死」とは、実際には「延命は無益だからやめたほうがいい」と医師主導で意思決定が進められていく、いわば日本型の「無益な治療」論なのでは ―― 。

 

 児玉さんは「無益な治療」の議論が少しずつ変質しつつあることを、敏感に指摘されています。

 確かに対象者が拡大し、コストを持ち出すようになり、医師主導で誘導されているような雰囲気は、医療現場に蔓延しつつあるように思います。

 これは危機的事態といえるでしょう。

 そして、これは世界の趨勢であるように思えてきます。

 

負の拡大解釈の連鎖

 障害者だから、認知症だから、高齢者だから、といった負の拡大解釈の連鎖が起こっていないか、臨床現場でも十分に配慮しなければならないでしょう。

 

患者自身の意思や判断で話が始まるのではなく、医療チームの「判断」で話が始まり、医療チームからの「説明」と「提案」によって話が進められようとしている。

 

 少なくとも、医者や医療チームが無益かどうかを決定できるわけではなく、ひとつの意見にすぎません。

 また、ルールやガイドラインなどを定めることも、相応しい問題ではありません。

 患者自身や家族の意向、その他の専門家の意見をよく収集しながら、そして医療者自身の意識にも目を向けながら、丹念に治療方針を検討していくべきでしょう。

 心してのぞみたいと思います。

*1:AVDの対象となるのは、病気で重い障害が残って、治る見込みもないまま赤ちゃんみたいに介護されて暮らすのは尊厳がないと感じる人や、モルヒネや鎮静剤で意識を落としてもらう以外に病気の痛みに耐える方法がない人、死が近いというわけではないがQOLが低下する不治の病気、例えば認知症、多発性硬化症、筋萎縮性側索硬化症、四肢麻痺の人

 Copyright © 2003, 2007-2017 地域医療ジャーナル