「うしろめたさ」にひっかかる
とあるきっかけから、「うしろめたさ」について考え始めた頃のこと。偶然立ち寄った本屋で見つけ、これだ!と思わず手にした本です。
ひとつのことで頭がいっぱいになっているとき、普段は通り過ぎてしまうような本に目に留まったりするものです。
本屋ならではの衝撃的な出会い、Amazonでは決してできない経験です。
交換モードから生まれるもの
ぼくらは現在、お金で商品を交換する、という経済活動に慣れ親しんで生活しています。こういった「交換モード」では、贈り物などの「贈与」とは違い、相手と特別な感情を抱くことなく、交換することができるようになっています。
サービスのひとつとして商品とお金を交換する、ただそれだけ。資本主義の縮図というか、宿命とも言えるかもしれません。
こうしたぼくらの経済活動は決してあたりまえではないのだ、ということが、著者のエチオピアでの暮らしぶりと対比しながら示されていきます。
「交換モード」が常態化している東京では、あるいは日本では、もしくは先進国では、こうした経済活動の基盤となる考え方が、無意識のうちに浸透してしまっているのかもしれません。
異質排除の姿勢
たとえば、異質なものを排除するまなざし。
異質排除を助長することと関連するような困った事件 *1 も起きています。
脱感情化するサービス
たとえば、脱感情化されるサービス。
医療や介護サービスも「交換モード」の傾向が強くなり、癒し手が不在になっていることは、以前から指摘してきました *2 *3。
もし、こうした社会の現象が経済活動に端を発しているとしたら、多少説得力がありそうな気がします。
贈与を力にかえて
貧困や経済的に恵まれないこと(不均衡)に対して、ぼくらはいろいろな理由をつけて正当化しています。
それこそ「うしろめたさ」ということなのでしょう。
まずはこの感情を意識したいと思います。
さらに、行き過ぎた「交換モード」に対する反省という見地からは、贈与という形式に解決の糸口があるのかもしれません。
無意識のうちに毎日行っている行動について、 よく考えてみたいと思います。