ちょっと前に書きかけて、途中でやめていたネタ。時間や余裕がない時に限って、こういうの書きたくなるのは悪いクセですね。
医療のことはわかりにくい。わかりやすくすれば理解されるだろう、と思い込んでいました。しかし、そうでもないということが、だんだんわかってきたんです。
というところまで、ブログで書いていたと思います。たしか。遠い記憶では。
ちょっと過去記事をひもといてみます。ぼくが思い出すためです。ふりかえるストーリーに、少しだけおつきあいください。
当事者の知と開かれた医療
「専門知」に基づく医療者主導の患者中心の医療には、自ずと限界があると指摘しています。 当事者であり、病の体験者でもある「素人の知」を取り入れるような、より開かれた医療のアプローチは今後さらに求められることでしょう。
科学社会学と開かれた医療 - 地域医療日誌 by COMET
2010年の記事。この本のことを忘れていました。思い出してよかった。
専門知に基づく医療者主導の医療から、「素人の知」を取り入れた「開かれた医療のアプローチ」が必要、との主張です。
なるほど。
その開かれた医療とは何か、少しだけ書いています。
1995年を転機に、日本では科学の信頼性が失墜していきました。完全無欠と思われていた科学技術を信奉していればよいという時代は終わり、科学は不確実なもので、社会の利害関係や価値観と絡み合っていることが認識されるようになりました。
医療は誰のものか - 地域医療日誌 by COMET
科学技術社会論の入門書を読みながら、開かれた医療について考えています。
1995年は日本の大きな転換期となった年ですが、科学でも転機があったのです。1995年に何があったのか、詳細は本書をご覧ください。
医療を開かれたものにするためには、当事者の経験から得られた知を共有するだけではなく、共に学んでいくという姿勢が問われています。
医療は誰のものか(2) - 地域医療日誌 by COMET
当事者の知を活用するには、共に学ぶ姿勢は不可欠でしょう。
そのためにも、当事者と医療者が同じ土俵に立って、共通理解のもとでコミュニケーションをはかることが大切だ、とぼくは考えたのでしょう。
当事者にもっとわかりやすい情報提供をしたい、そんな関心だったはずです。
わかりやすいこととわかることは違う
2013年のぼくの記事から。
人はわかりやすさを求めています。難しいことは、なんとかわかりやすく伝えようと努力しがちです。自然と、それが親切な伝え方だと思い込んでしまっているようです。
わかりやすいことはよいことか? - 地域医療日誌 by COMET
しかし、わかりやすく説明することは、わかることにつながっているのでしょうか。
わかりやすさが求められています。しかし、わかりやすく説明したところで、わかることにつながっているとは限りません。
わかりにくいことをわかりにくいまま伝えることも、時には大事なのではないか、とも思います。 少なくとも、わかりやすいことを目標にしないことは肝に銘じたいと思います。
わかりやすいことはよいことか? - 地域医療日誌 by COMET
わかりやすく伝えようとするのではなく、楽しさや素晴らしさを伝えようとしたらいいんじゃない? という提案ですね。
わかりにくくてもいいんだ、と肩の力が抜けたような本でした。
専門知を一般化するとしない
さて、そんな流れのなかで2015年となりました。
医療系ブロガーたちと、わかりにくいものを伝えようとする思い(楽しさや素晴らしさ)を共有できるのではないかと考え、いきなり走りだしたのが「地域医療ジャーナル」プロジェクトでした。
ここでぼくは2つの構想を提示しました。
ひとつは、専門知をさらに普及し、一般化することです。
専門職がさらに活用できる土壌(しくみやサービスを含む)をつくることはもちろんのこと、医療のユーザーである一般住民にも活用できるよう、もっと身近でわかりやすいものを工夫していかなければならないと考えています。
これは情報発信の場と交流、類似のサービスとの連携・乗り入れだけでは達成されないでしょう。次のステップへ踏み込む必要があります。
診察室から専門職や個人をつなぐ、開かれた学術媒体のような、新しいツールを目指します。
もうひとつは、専門知を一般化しないことです。
専門知がわかりやすく情報発信されると、活用されるようになるのでしょうか。これまでの経験から、私はやや懐疑的です。専門知を普及させることが本当にいいことなのかについても、もっと検証されるべきかもしれません。
さらに、専門知と実践の間を埋めるものについても研究が必要です。
考えてみれば、地域医療の現場で何が起こっているのか、よく把握できているとは言えません。実践そのものや現象そのものをもっと直視しなければならないのではないか、そこに踏み込んでいきたいと思います。
そのために何ができるのか、全く新しい挑戦です。
少しずつ活動の輪を広げて - 地域医療日誌 by COMET
専門知を一般化しない、ということを言いかえると、わかりにくいままで取り扱う、ということでしょうか。
コトバにまだなっていないような現象、医療現場で起こっているそのもののこと、をもっと取り扱ってもいいのではないか。
もっとリアルで、切実で、本能的なもの。
医療に働く大きな力
さらに、新たな課題として、このように書いています。
時代はどんどん先に進み、新たな課題が生まれつつあります。思いつくままに箇条書きにしておきます。
くり返しになりますが、従来の方法に甘んじてよいというはずがありません。時代に則した、新たな地域医療のスタイルが構築されるべきでしょう *7 。
- 膨大な情報にアクセスできる *3
- 情報更新が早い *4
- 科学の信頼性が低下 *5
- トランスサイエンス的問題 *6
少しずつ活動の輪を広げて - 地域医療日誌 by COMET
医療や科学だけで進めようとする「大きな力」がどこかに働いています。それに対峙するかのように、トランスサイエンス問題 *1 がクローズアップされているのでしょう。
医療に働く「大きな力」*2。
ここからどう離脱するか、どう決別するか。試されているかのようです。
さあ、ここからが再構築のタイミングです。
既存の力や既得権益に頼らずに、日々着実に診療の質を高めていくこと、そしてそれを共有すること。そのためのツールの全体像を示すこと。いよいよ本格的に取り組んでいきたいと思います。
EBMの実践も地域医療の実践も教育も、従来の方法に甘んじてよいというはずはありません。時代は変わりつつあります。
EBMの全く新しいスタイルや技法は、EBM実践者から生み出されるでしょう。そしてそれは、おそらく地域医療における新たな診療スタイルのひとつになると確信しています。
日本の未来の地域医療像を具現化していくこと。そのことこそ、私たちが師匠から託された役割であると感じています。
ここで何を実現しようとしていたか? - 地域医療日誌 by COMET
EBMも地域医療も、実践のなかで日々改良をくりかえしています。
経験の蓄積は、経験しなければできないものです。
しっかり足場を作り、「大きな力」から決別し、地域医療スタイルをアップデートしたい。そしてそれを日々実践したい。そんな想いでした。
このブログや「地域医療ジャーナル」がその役割を担えているのか、と問われれば、まだまだです。
あらためて、2015年の想い、初心に立ち返りたいと思います。
わかりやすさに媚びるな
そして2017年。
言葉は何か意味のある情報を正確に伝えるためにある。そういった考えにちょっとこだわりすぎてきたように思える。
科学的な情報というものには、そもそもそういった側面がつきまとっている。正確な定義、正確な数値、受け取り側に誤解の生じにくい表現を、追求しつづけている領域だからだ。
しかし、感情を表現して伝えようとするなら、意味がしっくりしなくても他人が理解しやすいような言葉を選んだり置き換えたりするなど、他人に媚びる必要はないはずだ。
ぼくらは言葉のために生きているわけでも、意味のために生きているわけでもない。
不器用でもいい、自分の言葉で - Elephant in the Room
ここまで来て、ちょっとしっくりしてきました。
楽しさや素晴らしさといった感情を伝えようとするなら、わかりやすさに媚びるな、ということでしょう。
わかりにくくてもいい、思いや感情が伝われば。
それは科学的ではない、と言われようとも、そんな「大きな力」に巻き込まれたくない。そもそも「大きな力」こそ、科学的ではなかったのですから。
書きながら、ちょっと新たな医療の方向性 *3 が見えたような気がします。
すでに新しい展開の準備をはじめています。わくわくしています。
Googleはもはや古い
Googleの声明はぼくにとって2017年の衝撃、と言えましょう。
専門用語を多用していると一般ユーザー向けには難しい、平易な言葉でコンテンツを作りなさい、という注文です。
ここまでの流れから考えると、Googleは大きな過りを犯しています。
わかりやすくすれば理解できるという前提がすでに古い考えです。限界があるでしょう。
Googleには目もくれず、前進したいと思います。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
*1:トランスサイエンス的問題に医療はどう向き合うか - 地域医療日誌 by COMET
*2:ぼくは文脈と呼んだり、象と呼んだりしています。
*3:医療2.0とか地域医療2.0とでも呼びたいところです。