ベスト・キッドから師匠について学ぶ
みなさんは、映画「ベスト・キッド」をご覧になったことがありますか?私は子どもの頃にTVで放映されたものでしょうか、一度は観た記憶がありました。
先日、ツタヤで借りてきたところ、当時の1984年のものではなく、2010年のリメイク版のほうでした。空手がカンフーになっており、カンフーの師匠役がジャッキー・チェンになっていました。
中国へ転校していじめられていた少年が、師匠からカンフーを習い、強くなっていくというストーリーです。
この映画には、ひとつの師匠像が描かれています。
カンフーが強くなりたい少年に、師匠はジャケットを着て、脱いで、落として、拾って、掛けて、という動作の練習をただ繰り返させます。
師匠はその練習ばかりで、カンフーの練習はいつまでたっても始まりません。
しびれを切らした少年は、「いつまでこんなことやるの?」と問うことになります。
黄石公の沓落とし
このお話が中国に古く伝わる故事とよく似ています。中国が舞台ということもあるかもしれませんが、教育論に通じるところがあるように思えます。
この故事については、内田樹さんがよく紹介されています。
一部改変して引用いたします。
漢の武人張良(-紀元前186年)が秦の始皇帝暗殺に失敗して亡命中、黄石公(こうせきこう、生没年不詳)という老人に出会い、兵法の奥義を伝授してもらうことになる。
ところが、老人は何も教えてくれない。
ある日、路上で出会うと馬上の黄石公が左足に履いていた沓を落とす。
「張良、あの沓取って履かせよ。」
しぶしぶ沓を拾って履かせた。
別の日、また路上で出会い、今度は両足の沓をばらばらと落とす。
「取って履かせよ。」
むっとして沓を拾って履かせた瞬間に、兵法の奥義を会得した。
お話はこれだけです。
沓を落とされて拾っただけで奥義を会得してしまった、というのです。
どういうことでしょうか?
なぜ?と問うことそれ自体が学びになる
内田さんはこの著書の中で、ひとつの考え方として、このように解説しています。
兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と師に向かって問うことそれ自体であった。論理的にはそうなります。「兵法奥義」とは学ぶ構えのことである。(中略)重要なのは、「学び方」を学ぶことだからです。
このあとで、師匠が弟子に便所掃除や廊下の拭き掃除をさせる話がつづきます。
「先生、毎日便所掃除とか廊下の拭き掃除ばかりで・・・そんなことより、もっと直接修行に有用なことをさせてください」
ここで、黄石公はこう考えていたのではないでしょうか、と解説してしまうことは、学びにはならない、ということになります。
何事も学びというものはそうですが、直接修行に有用なことは何か、修行を始めたばかりの者には知る由もないものです。
便所掃除であれ、ジャケットを掛ける練習であれ、沓落としであれ、一体師匠は何を考えているのか、と問い続けることに修行や学びの意味がある、ということでしょう。
何でも効率よく学べたほうがよい、資料はわかりやすいほうがいい。そういう学びに人気があり、注目も集める今、学ぶ構えがどうなっているのか、立ち止まってよく考えてみる価値があるように思えます。