地域医療日誌

新しい医療のカタチ、考えます

知を共有することに意味はあるのか?

 

 本の紹介です。

「ゴミ情報の海から宝石を見つけ出す」というタイトルは、医学情報の収集にも共通するものがあるかもしれません。ジャーナリストの津田さんの本です。

 

キュレーターの「人」が問われる時代へ

 

 インターネットの普及とともに、私たちは、たくさんの知識を短時間で獲得することができるようになりました。

 ありとあらゆる情報があふれるようになり、便利になった反面、玉石混交の情報の海におぼれてしまうこともあります。

 そのような時代背景に登場したのは、キュレーション*1です。情報のまとめサイトや信頼できるキュレーターの意見はたいへん役に立ちます。

 

 しかし、すでに少数精鋭のキュレーターから有益な情報を入手できた時代から、キュレーターが乱立する時代へと進んできています。プロローグから引用します。

 作家の佐々木俊尚さんはこのような状況を指して、「一億総キュレーター時代」と評しています。

  そうなると問題になってくるのは、キュレーターの選別です。情報が大量にあって取捨選択するのが難しいから人々はキュレーターに頼るわけですが、キュレーターの数が多くなると、今度はキュレーターの「質」を見極めなければならなくなるのです。

  ソーシャルメディア時代の情報リテラシーとは「人を見る力」であるということです。そしてこれは同時に、自分という「人」がソーシャルメディアを通じて見られていることを意識しなければならない、ということにもなります。

 

 単にキュレーションされた情報を拾い読みするだけでは不十分で、そのキュレーションした人はどんな人か、ということがこれまで以上に問われることになる、と津田さんは主張しています。

 

 情報量が豊富になるにつれて、情報の内容だけではなく、発信者はどんな人か、という情報も同時に集積され、その情報の判断材料とされるようになっています。発信者の情報を利用することで、情報の信頼性までもが推しはかれるようになってきているということでしょう。

 

知をめぐる権威構造の変質

 

 このような時代になったことで、困ったこともおきています。 本文からいくつかピックアップして引用します。

あまりにも情報が整理されすぎていることで、逆に多様性を失いつつある―それがいまの私たちの社会が抱くべき危機意識なんですかね。

 学生の側は、教授の紹介や研究を通して、最新の動向にふれるしかなかった。また当時、洋書は相当に高価なものだったため、学生には購入が難しかった。そこで教授から借りて、それを勉強したのである。その点で、学生は教授を頼りにしなければならず、そこに教授の権威の源泉があった。大学教授の地位が高かったのは、情報の独占者だったからである。 

インターネットの普及は、知をめぐる権威構造を根本から変えたことになる。

 

 最近よく話題になっている論文に関する一連の不祥事は、知をめぐる権威構造の変質によりおきているととらえると、なるほど、少し納得できるような気になります。

 大学のレポートだけではなく、学位論文までもが、他の文献のコピペ(引用ではなく)があっても審査をすり抜けてしまう。以前からも横行していたのかもしれませんが、見ぬくことは難しいことでしょう。

 

 大学は地位の保守に躍起になっているように見えます。もはや、大学の地位が危うい、信頼が急速に失墜しつつある、ということかもしれません。

 

 知をめぐる権威構造は今後、どうなっていくのでしょうか。行方を注目していきたいと思います。

  

ネットメディアは成長していない

 

 ネットメディアに対しては、手厳しい評価が下されています。

「報道の体をなしていないメディアが多い」とはそのとおりで、新聞社や通信社―いわゆるマスメディアが運営しているニュースサイト以外で、時事問題についてまともな報道ができるネットメディアはほとんどありません。

質の高い報道ができるネットメディアを育てるには、もう少しマスメディアの経営状態が悪化して、記者が流動化する必要があるのではないかと思います。

 

 このように厳しい評価をしながらも、マスコミに負けない、質の高い情報を提供するネットメディアづくりを提案しています。

 マスコミに負けないことを目標とすべきかどうかわからないのですが、記者が流動化することで、近い将来、質の高いネットメディアが出現する可能性を予言しています。

 

「エゴスクープ」に熱中する日本のメディアの問題構造については、過去の記事*2でも触れましたが、ネットメディアに求められる役割はさらに大きくなっていくことでしょう。

 

ここでやるべきことは何か 

 

 このような時代の中、情報発信をどのようにしていくか。やるべきことは何か。迷いや模索がつづきます*3

 

 このまま知識という情報をさらに垂れ流していくことに、一体何の意味があるのでしょうか。

 

 医学情報について言えば、知を共有することよりも、知を医療現場でどのように使いこなしていくのか、そのノウハウのほうが求められるでしょう。

 さらに、ノウハウを共有することよりも、ノウハウなしでできる技術のほうが、さらに求められるでしょう。

 

 車の自動運転に例えてよいかわかりませんが、ノウハウがなくても安全な医療を提供できる、ということができるとすれば、技術としては最高です。

 

 少なくとも、すぐに劣化していく知の共有では、すぐに役立たなくなるはずです。情報は多ければ多いほうがいい、ということはないでしょう*4 *5

 

 知をいくら紹介しても、情報提供しても、現場はほとんど何も変わりません。

 知をどのように発掘するか、そしてそれをどのように生かしていくか、あるいは生かさないか。ノウハウやその技術開発へ舵を切るべきなのかもしれません。

 

 本の紹介という本題から逸れてしまったようですが、ブログでも模索はつづきます。

 

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