ツイッターから
前回記事 過渡期を生きる医療者として - 地域医療日誌 を掲載した後で、関連したTwitterのつぶやきを拾ってみました。
“@bycomet: “過渡期を生きる医療者として - 地域医療日誌” http://t.co/z5QIfAsoL1” ほんとにそう思います!
— ぱくぱく (@hironaga4566) 2014, 8月 2
共感いただき、ありがとうございます。
そして、著者のつぶやきから。
今日の訪問診療で明らかになったこと。リハビリを拒否する寝たきり患者さんは案外寝たきりを楽しんでいるかもしれない、ということ
— 名郷直樹 (@nnago) 2014, 8月 1
まさに本の内容をなぞらえるようなつぶやきですが、そのような可能性を捨てないようにしたいです。
誰でも医療を受けたい、医療を受けるべきだ、と思っているわけではありません。そんなことは当たり前のことなのですが、困っている(ように見える)人は医療を求めているはずだ、と無意識に考えてしまうことこそが、恐ろしいことなのです。
医療の介入を厄介だ、と感じている人は少なくない。
— 地域医療日誌 (@bycomet) 2014, 8月 3
厄介だから何もしたくない、という人に対してこそ、優しくありたい。
— 地域医療日誌 (@bycomet) 2014, 8月 3
文脈依存アプローチの限界
文脈で考えている限り、ここからは逃れられないような気がします。医療を提供するという前提にあるかぎり、何かしてあげるにはどうしたらよいか、と考えてしまうからです。
だいぶ前になりますが、このことについて少し考えて記事 *1 にしていたことを思い出しました。
時間的継続性や関係性があれば、患者の理解が深まるというのは、どこか科学的な解決策に過ぎず、まだまだ全体をとらえきれていないように思えるのです。
これは現代の医療では基本となるアプローチと思われますが、情報をうまく引き出してはじめて文脈がはっきりと理解できる、文脈がわからないと理解できない、という文脈に依存される文脈依存性アプローチとなっています。
さらには文脈依存アプローチのひとつ、患者中心の医療についての記事も。
文脈に依存することで選択肢を狭めているということであれば、患者を理解することだけではなく、治療方針や予後を変えてしまいかねない、重要な問題が潜んでいるかもしれません。
頭の中がぐるぐる回り始めていますが、整理されていません。まあ、本を眺めながらでも、ゆっくりと考えてみたいです。